ミステリーを読む醍醐味のひとつに、「叙述トリック」があります。事件のトリックではなく、物語の語り方そのものに仕掛けが施されている——読者の思い込みや先入観を巧みに利用し、最後の一行、あるいは何気ない一文で世界がぐるりと反転する。読み終えた瞬間に「もう一度最初から読み直したい」と思わせる、あの強烈な体験を生むのが叙述ミステリーです。
ここでは、初めて触れる人にもおすすめできる定番から、知る人ぞ知る隠れた名作まで、絶対に外せない10作品を紹介します。ネタバレ厳禁のジャンルなので、内容はぼかしつつ、読む前のワクワク感を損なわないよう書いていきます。
1.『十角館の殺人』綾辻行人
「新本格ミステリ」というムーブメントの起点となった、1987年刊行の記念碑的作品。十角形の奇妙な館が建つ孤島・角島を訪れた大学ミステリ研の7人を、連続殺人が襲います。
この作品で語られる「あの一行」は、日本ミステリ史に残る衝撃として今も語り継がれています。古典的なクローズドサークルものとして読み始めたつもりが、ある一文によってすべての視界が反転する——その体験は、ミステリ好きなら一度は味わうべきものです。叙述ミステリーの入り口として、まずこの一冊から始めるのが王道。
2.『イニシエーション・ラブ』乾くるみ
「最後の二行で、すべてが反転する」というキャッチコピーで一世を風靡した一冊。1980年代を舞台にした、ややオクテな大学生・たっくんと歯科衛生士・マユとの甘酸っぱい恋愛模様……と思って読み進めていると、ある瞬間に物語の意味がまったく変わってしまいます。
ミステリーというよりは青春恋愛小説として読める前半が、最終盤の数行で別の貌を見せる。「必ず二回読みたくなる」という宣伝に偽りはなく、再読すると伏線の周到さに驚かされます。映画化もされましたが、これは小説でこそ味わえる仕掛けです。
3.『葉桜の季節に君を想うということ』歌野晶午
「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」で1位を獲得し、日本推理作家協会賞・本格ミステリ大賞をW受賞した、あらゆる賞を総なめにした傑作。
「何でもやってやろう屋」を自称する元私立探偵・成瀬将虎が、霊感商法事件と、自殺しようとしていた女性・麻宮さくらとの出会いに巻き込まれていく物語。読み進めるうちに、何か違和感が積み重なっていき、最後にすべてが回収される瞬間の快感はこの作品ならでは。伏線回収の見事さでは間違いなくトップクラスです。
4.『ハサミ男』殊能将之
美少女を殺害し、研ぎ上げたハサミを首に突き立てる猟奇殺人犯「ハサミ男」。3番目の犠牲者を綿密に調べ上げていた矢先、自分の手口を真似て殺された彼女の死体を発見してしまう——「ハサミ男」自身が、模倣犯の正体を追うはめになる、という倒錯した設定の傑作です。
作中に散りばめられた小さな違和感が、終盤で一気に意味を持ち始める構成は見事の一言。映像化が困難と言われた時代に、それでもなお映画化された理由は、原作を読めば納得できるはずです。第13回メフィスト賞受賞作。
5.『殺戮にいたる病』我孫子武丸
「叙述トリックミステリの最高到達点」と評される一冊。永遠の愛をつかみたいと願った男が、東京の繁華街で次々と猟奇殺人を重ねていく——犯人・蒲生稔の行動と魂の軌跡をたどる構成です。
冒頭から終盤まで、相当にハードで陰惨な描写が続くため読み手を選びますが、ラストに用意された衝撃は他の追随を許しません。「犯人は愛を語り、作家は真相を騙る」——この一文が示す通り、物語そのものが大胆不敵なトリックの上に組み立てられています。覚悟して読んでください。
6.『倒錯のロンド 完成版』折原一
叙述トリックの名手・折原一の原点といえる作品。受賞間違いなしと自信を持って推理小説新人賞に応募した作品が、何者かに盗まれてしまう——主人公・山本安雄の視点と、盗作者とされる白鳥翔の視点が交互に展開し、二転三転する駆け引きに息を呑みます。
折原作品の特徴である多重視点による語りの揺さぶりを堪能できる一冊で、32年越しに完成版として加筆改訂されたのがこの「完成版」です。最後の最後まで安心できない構成の妙を味わってください。
7.『模倣の殺意』中町信
日本における叙述トリックの先駆けともいえる、1971年発表の作品(江戸川乱歩賞最終候補作『そして死が訪れる』が原型)。
7月7日午後7時、新進作家・坂井正夫が青酸カリの服毒死を遂げる。元恋人と、ルポライターという二人の人物が、それぞれ独立に坂井の死の真相を追っていく——というシンプルな構成の中に、信じられないほど大胆な仕掛けが施されています。1970年代の作品ながら、その切れ味は今読んでもまったく色あせません。叙述ミステリーのルーツを知る意味でも必読の一冊。
8.『慟哭』貫井徳郎
連続する幼女誘拐事件の捜査が難航し、若手キャリアの捜査一課長が窮地に立たされる——という警察小説のフォーマットで進行する物語と、新興宗教に救いを求める「彼」の視点が交互に語られていく構成。
北村薫氏が「題は『慟哭』、書き振りは練達、読み終えてみれば仰天」と評した通り、二つの視点がどう交わるのかという興味で引っ張られたまま、終盤で訪れる衝撃。1993年の貫井徳郎デビュー作にして、今なお叙述ミステリーの代表作として語り継がれています。
9.『向日葵の咲かない夏』道尾秀介
夏休みを迎える終業式の日、欠席した級友・S君の家を訪れたミチオは、首を吊って死んでいるS君を発見する。ところが、その死体は忽然と消えてしまい、一週間後、S君は「あるもの」に姿を変えて現れ、「僕は殺されたんだ」と訴える——。
不条理ミステリと呼ぶしかないような奇妙な世界観の中で、妹のミカと「僕」が事件を追っていく物語。読了後の後味は決して爽やかではありませんが、独特の世界観に呑み込まれる感覚は強烈で、道尾秀介の名を世に知らしめた代表作です。
10.『アクロイド殺し』アガサ・クリスティー
最後は海外作品から、ミステリ史において叙述トリックそのものを論争の的にした古典中の古典を。1926年に発表された当時、その大胆な仕掛けはフェアかアンフェアかをめぐって、ミステリ界を二分する議論を巻き起こしました。
イギリスの田舎町で、富豪ロジャー・アクロイドが書斎で刺殺される。村に住む医師シェパードを相棒に、名探偵ポアロが調査を始める——という古典的なフーダニット。しかし、その「語り方」に潜む大仕掛けこそが、本作を100年近く経った今も読み継がれる名作たらしめています。叙述ミステリーを語る上で、避けて通れない一冊。
おわりに
叙述ミステリーの面白さは、物語の終盤で「読者が読んでいた物語そのもの」が変質するところにあります。同じ文章を読んでいたはずなのに、最後まで読んでから振り返ると、まったく別の物語が立ち現れる——この体験は、小説というメディアでしかなしえないものだと思います。
今回紹介した10作品は、どれもネタバレを避けて紹介するのが難しいくらい、仕掛けと物語が分かちがたく結びついた傑作ばかり。ぜひ何の予備知識もないまま、まっさらな状態で読み始めてみてください。最後のページを閉じた瞬間、あなたもきっと「もう一度最初から読み直したい」と呟いているはずです。
