ルシア・ベルリンを読む——死後10年で「再発見」された、アメリカ文学最後の秘密

文学

「掃除婦が物を盗むのは本当だ。ただし雇い主が神経を尖らせているものは盗らない」

こんな一文から始まる短編を、あなたは読んだことがあるだろうか。

ルシア・ベルリン。1936年アラスカ生まれ、2004年に68歳で逝去。生前は一部の熱心な読者にしか知られていなかった作家が、死後10年を経て突如「再発見」され、世界中で熱狂的に読まれるようになった——という、文学史的にはかなり珍しい経緯をもつ作家だ。

日本でも2019年の邦訳刊行以降、本屋大賞翻訳小説部門2位、Twitter文学賞海外編1位、累計15万部突破と、静かに、しかし確実にファンを増やし続けている。

この記事では、ルシア・ベルリンとは何者なのか、どこから読み始めればいいのか、なぜこれほどまでに作家や書評家を魅了するのかを紹介していきたい。

なぜ「死後10年で再発見」されたのか

ルシア・ベルリンは生前、6冊の短編集を発表している。70年代後半から書き始め、同時代の作家——レイモンド・カーヴァーやアリス・マンロー、リディア・デイヴィスといった、後に短編の名手として知られる作家たち——に大きな影響を与えていた。けれども一般的な知名度は低く、「アメリカ文学界最後の秘密」と呼ばれるような存在だった。

転機は2015年。死後11年を経て、彼女の代表作を集めた短編集『A Manual for Cleaning Women』が刊行されると、これがニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに入り、その年の多くのメディアの「ベスト・オブ・ザ・イヤー」に選出される。最近ではニューヨーク・タイムズ紙の「21世紀の100冊」にも選ばれた。

なぜ生前ではなく死後に「再発見」されたのか。これにはいくつかの説があるけれど、ひとつには、彼女の書く題材——アルコール依存症のシングルマザー、刑務所、掃除婦、看護助手といったブルーカラーの女性たちの生——が、長らく「アメリカ文学の本流」とは見なされにくかったということがある。もうひとつには、彼女自身が文壇の中心から離れた場所で、生活と育児に追われながら書いていたということ。

けれどおそらく一番大きな理由は、単純に、いつ読んでも新しい——時代に先回りしていたから、ということなのかもしれない。

どこから始めるか——日本語訳の3冊

日本では翻訳家・岸本佐知子の手によって、現在3冊の短編集が刊行されている。すべて講談社から。原書『A Manual for Cleaning Women』の収録作と、その他の作品集から選ばれた作品が、テーマや時系列を意識しつつ編まれている。

『掃除婦のための手引き書』(2019年)

入門編として、これ以上ない一冊。

原書から岸本佐知子が「よりすぐった24篇」を収録。表題作「掃除婦のための手引き書」は、複数の家で働く掃除婦が、バスに揺られながら、死んだ薬物中毒の夫のことを思い続ける——というだけの話なのだけれど、その「だけ」の中に、人生のすべてが詰まっている。

朝日新聞、日経、毎日、東京新聞をはじめ、これでもかというほどメディアで取り上げられ、川上未映子、小川洋子、中島京子、深緑野分、藤野可織、山内マリコといった日本の作家たちが軒並み熱烈な賛辞を寄せている。

何でもないものが詩になる、空前絶後の作家。
——川上未映子

読み終えるのが惜しくて惜しくて、一日一篇だけと自分に課していました。
——小川洋子

文庫版も2022年に出ているので、まずはこれを買ってほしい。

『すべての月、すべての年』(2022年)

『掃除婦のための手引き書』を読んで「もっと読みたい」と思った人のための、続編。

原書のうち、最初の選集に収録しきれなかった19編を収めている。新米女性教師と聡明な不良少年の対決を描く「エル・ティム」、夫を失った女がメキシコの漁村でダイビングを通じて生まれ変わる表題作「すべての月、すべての年」など、こちらも傑作揃い。

『掃除婦のための手引き書』が「衝撃の初対面」なら、『すべての月、すべての年』は「もう一度会えたうれしさ」だ。中島京子は日経新聞の書評でこう書いている——「最初のときほどびっくりしないだろうという気持ちもあった。だが、やはりびっくりしたのである」。

『楽園の夕べ』(2024年)

最新作。原書『A Manual for Cleaning Women』以外の作品集から選ばれた、ある意味で「上級者向け」の一冊。

「オルゴールつき化粧ボックス」「楽園の夕べ」「桜の花咲くころ」「妻たち」「娘たち」など、表題作を含む24編を収録。江國香織は「2024年 この3冊」のひとつにこの本を選んでいる。

3冊あるけれど、必ず『掃除婦のための手引き書』から始めること。これは入門用に編まれた本で、いきなり『楽園の夕べ』から入ってしまうと、ルシア・ベルリンの「最初の衝撃」を味わいそびれてしまう。

ルシア・ベルリンの何がそんなにすごいのか

ここからは少し踏み込んで、ルシア・ベルリンの作品の特徴を3つ挙げてみたい。

1. 「人生がすごすぎる」が作品にそのまま流れ込んでいる

まずはざっくり彼女の人生を要約してみる。

  • 鉱山技師だった父の仕事の関係で、幼少期はアラスカ、アメリカ西部の鉱山町を転々。
  • 成長期の大半をチリの首都サンティアゴで過ごす(ここでスペイン語と上流階級の世界を知る)。
  • 30歳までに3回結婚し、3回離婚。
  • 4人の息子をシングルマザーとして育てる。
  • 高校教師、掃除婦、電話交換手、看護助手などをして生計を立てる。
  • 長年アルコール依存症に苦しみ、50代でようやく克服。
  • 90年代にサンフランシスコ郡刑務所で囚人に創作を教え、後にコロラド大学の准教授になる。
  • 2004年、68歳の誕生日に逝去。

短編の題材は、ほぼすべてこの人生から取られている。掃除婦の話、刑務所で創作を教える話、アルコール依存で夜明けに震えながら酒を買いに行く話、メキシコでガンに侵された妹を看取る話、チリでの少女時代の話——。

ただし重要なのは、これが単なる「私小説」ではないということ。ベルリン自身は同じ出来事を何度も、まったく違う角度から書いている。同じ妹の死を描いた短編が複数あって、それぞれまったく別の作品になっている。彼女にとって人生は素材であって、目的ではない。

2. 「リズム」と「飛躍」の文体

リディア・デイヴィスは原書の序文でこう書いている——「彼女の小説を読んでいると、自分がそれまで何をしていたかも、どこにいるかも、自分が誰かさえ忘れてしまう」。

これは比喩ではない。本当にそうなる。

ベルリンの文体は、一見すると素っ気ない。情景描写も心理描写も最小限。なのに、読み終わったときには、登場人物の匂いや手触り、その日の空気の温度まで、ありありと感じられている。

ヘミングウェイの影響を指摘する評者もいる(実際、心理描写を削ぎ落とした文体は近い)。けれどヘミングウェイが「氷山の一角」を冷たく差し出すのに対して、ベルリンの省略には独特の「温度」がある。冷たくない。むしろどこか可笑しい。苦笑しながら肩をすくめるような、そういう温度。

3. 救いがないのに、なぜか読後感がいい

ベルリンの短編には、救いがない話が多い。アルコール依存で家族を失う話、認知症の老人の家で睡眠薬を盗む話、刑務所で創作を教える話、自殺を考え続ける話。

なのに、読後感がいい。

これがおそらくベルリンの最大の謎で、批評家たちが揃って戸惑いつつ絶賛している理由だ。金原ひとみは朝日新聞の書評でこう書いている——「こんなに渇いても、人は愛せるし、こんなに汚くても、人は気高いし、こんなに希望がなくとも、人は生きられる。その事実を天気のように受け入れるほかないのだと、隣で微笑まれているような読書だった」。

中島京子は同じことをこう言っている——「人生はただ苛酷なわけでも、ただおかしいわけでも、ただ悲しいわけでも、ただ美しいわけでもなく、それらすべてであり、それ以上のものだ」。

そう、ベルリンの作品は「すべて」が同時に書かれている。だから救いがないのに苦しくない。生きていることの全部が、淡々と、肩の力を抜いた笑みとともに差し出される。

最初に読むべき1篇——「掃除婦のための手引き書」

3冊から1篇だけ選ぶとしたら、やはり表題作「掃除婦のための手引き書」になる。

複数の家を掃除して回る女が、バスに揺られながら、それぞれの雇い主の家のことを思い出し、そして死んだ夫ターのことを考える。雇い主の家から盗む睡眠薬は30錠まで貯まっている。バスは進む。

それだけの話。それだけの話なのに、最後の数行で、これは死を考える人の話だったということが、静かに浮かび上がってくる。

このタイプの「あとで効いてくる」短編が、ベルリンには山ほどある。

まとめ——なぜ今、ルシア・ベルリンか

最後に少しだけ個人的な話をする。ルシア・ベルリンの本を読んでいると、「人生をうまくやれていない自分」が許される感じがする。それは慰めとか勇気づけといった甘いものではなくて、もっと素っ気ない、「みんなそれぞれぐちゃぐちゃに生きているよ」というだけの事実の確認に近い。

うまくいかない毎日を、それでもなんとか進めていくしかない——という気分のときに、ベルリンの本を1篇ずつ読むのは、たぶんとてもいい時間の使い方だ。長編ではなく短編集なので、寝る前に1篇だけ、というのもできる。

3冊どれから入ってもいいけれど、まずは『掃除婦のための手引き書』を。読み終わって「もっと欲しい」となったら、『すべての月、すべての年』へ。そして年単位の時間をかけて、最終的に『楽園の夕べ』に手を伸ばしてほしい。

ルシア・ベルリンは、いつ読んでも、何度読んでも、毎回少し違う角度から効いてくる作家だ。だから一度ハマると、ずっと付き合っていけるはずだ。

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