「夢は嘘をつかない、嘘をつくのは現実のほうだ」──そう言わんばかりの小説を書きつづけた作家がいる。アントニオ・タブッキ。1943年にイタリアのピサに生まれ、2012年にリスボンで亡くなった。イタリア人でありながらポルトガル文学の研究者であり、フェルナンド・ペソアの最良の理解者の一人として、ポルトガル語でも小説を書いた。
タブッキの小説を読むという経験は、しばしばこういう感覚に近い。眠りに落ちる直前、まだ意識はあるのに、自分の見ているものが現実なのか想像なのか判別がつかなくなる、あの一瞬の浮遊。彼の代表作のほとんどは、行方不明の誰かを探す物語であり、その「誰か」を探しているうちに、自分自身が誰だったのかわからなくなっていく物語だ。
本稿では、入門に最適な三冊──『インド夜想曲』『レクイエム』『供述によるとペレイラは……』──を軸に、この特異な作家の魅力を紹介したい。
失踪と探索──タブッキの基本フォーマット
タブッキの小説には、ある反復する構造がある。誰かが消える。主人公はその人物を探して街や国を彷徨う。出会う人々との断片的な対話が積み重なる。そして物語の終わりに、自分が探していたものが何だったのか、そもそも探していたのは自分なのか他人なのか、その境界が静かに溶けていく。
これは推理小説のフォーマットを借りた、形而上学的な実験だと言ってもいい。タブッキはミステリの構造を使って、ミステリの解決ではない場所へ読者を連れていく。謎は解かれず、ただ別の謎へと変奏されていく。
そのことが最もはっきり現れているのが、彼の名を世界に知らしめた『インド夜想曲』だ。
『インド夜想曲』──熱帯夜のなかの自我の溶解
ボンベイ、マドラス、ゴア。失踪した友人シャヴィエルを探して、語り手はインドの夜を渡り歩く。スラム街の宿、汗の匂いが立ち込める夜の病院、不妊の女たちにあがめられたという巨根の老人、夜のバス停で出会う美しい目をした少年──。十二の夜、十二の出会いが、まるで幻燈のように浮かんでは消える。
この小説の翻訳を手がけたのは須賀敦子だ。須賀敦子の透明な日本語と、タブッキの湿度の高い文体は、奇跡的な相性を見せる。読んでいると、こちらの皮膚にもインドの夜の湿気がまとわりついてくる。
そしてラスト、瀟洒なホテルのレストランで交わされる会話で、読者は決定的なネタばらしを受ける──ように見える。だが、その「ネタばらし」は本当に答えなのだろうか。タブッキはここで、推理小説的な解決を提示するふりをして、もっと深い迷路の入り口を開けてみせる。
この小説には映画版もある。アラン・コルノー監督による1989年のフランス映画『インド夜想曲』。原作の幻惑的なムードをよく捉えた映像作品で、興味があれば併せて観ると、小説の余韻が二重に響く。
『レクイエム』──生者と死者が同じテーブルにつく日
七月の灼熱のリスボン。ひとりの男が、約束された相手と会うために街を彷徨い歩く。彼が出会うのは、すでに死んでしまった友人や、若かりし日の父親、そして「あの男」──彼が敬愛してやまない詩人、おそらくはフェルナンド・ペソア。
『レクイエム』はタブッキがポルトガル語で書いた小説である。イタリア人の作家が、母語ではなくポルトガル語で書いた──この事実そのものが、すでに小説的だ。タブッキにとってポルトガル語は、自分自身を一度脱いで、別の身体に住み替えるための言語だった。
副題は「ある幻覚」。だがこの幻覚には、不思議な穏やかさがある。『インド夜想曲』が熱帯夜の不安をたたえているとすれば、『レクイエム』はリスボンの真昼の静寂を抱えている。蝉の声しか聞こえない時間に、生きている者と死んでいる者が同じテーブルにつき、料理を食べ、葡萄酒を飲み、雑談をする。
死者との対話、というモチーフは文学史に無数にあるが、タブッキの書き方には独特の手触りがある。劇的でも感傷的でもなく、彼らはただ、そこにいる。会いに来てくれた、というよりも、もとからそこにいた、という感じで。
ペソアと彼の異名たち──ペソアが生み出した複数の架空の詩人たち──への偏愛がそのまま小説になったのが、岩波文庫の『夢のなかの夢』だが、その前にぜひこの『レクイエム』を読んでほしい。タブッキ文学の原点とも言うべき一冊だ。
『供述によるとペレイラは……』──幻想から歴史へ
1938年夏のリスボン。サラザール独裁政権下、ファシズムの影が忍びよるポルトガル。リスボンの小新聞社「リシュボア新聞」の文芸欄主任、中年のペレイラは、太りすぎていて、汗をかきすぎていて、亡くなった妻の写真に向かって話しかける癖がある、そういう男だ。
ある日、彼は若い見習い記者モンテイロ・ロッシを雇う。この青年との出会いが、ペレイラの平穏な──というより、平穏に閉じこもっていた──人生を、思いもかけぬ方向へ運んでいく。
タブッキの最高傑作と言われることが多いのがこの小説だ。理由はわかる。『インド夜想曲』や『レクイエム』が幻想と現実の境界線そのものを溶かしていく作品だとすれば、『供述によるとペレイラは……』はその逆で、夢のなかでぼんやり暮らしていた男が、現実の重みをどうしようもなく引き受けていく物語だからだ。
そして「供述によると」というタイトルの仕掛けが効いている。物語全体が誰かによる供述として語られる──誰に向かって? 何のために? その問いは最後まで明示的に答えられない。だが、答えられないことそのものが、この小説の政治性をかたちづくる。
汗、レモネード、香草入りオムレツ。ペレイラがしつこく口にし続けるこれらの細部は、彼の内面の揺らぎを、直接書かずに書くための装置だ。タブッキは「ペレイラは悩んだ」とは決して書かない。ただペレイラがまた汗をかき、また砂糖をたっぷり入れたレモネードを注文する、それだけを書く。
現代日本に生きる読者にとって、この小説が決して「過ぎ去った時代の話」として読めないのは、おそらく多くの人が感じることだろう。
どこから読みはじめるか
三冊のうち、どこから読みはじめるべきか。
雰囲気に身を委ねたいなら『インド夜想曲』。短く、濃密で、入り口として申し分ない。
静かな悲しみと、死者との和解のような時間を味わいたいなら『レクイエム』。読後、しばらく言葉を失う種類の小説だ。
物語の手応えを求めるなら、そして今の時代に文学が何ができるのかを考えたいなら『供述によるとペレイラは……』。最初の一冊として選んでも後悔はない。
タブッキは多作だったわけではないが、書く小説のひとつひとつに、はっきりとした手触りがある。マジックリアリズム、と一言でくくるにはあまりに固有の作家だ。ガルシア=マルケスの熱気でもなく、ボルヘスの幾何学でもなく、もっと体温の近い、湿った夜の幻覚──それがタブッキの世界だ。
イタリア文学の鬼才、と呼ばれることが多い彼だが、本人はおそらく「ポルトガルに憑かれたピサ生まれの男」程度の自己認識だったろう。その越境性、その帰属の曖昧さこそが、彼の文学の核にある。誰かを探しに行って、自分が誰だったのかを忘れて帰ってくる──そのための小説を、タブッキは書き続けた。
夏の暑い夜、あるいは梅雨明けの蒸し暑い午後、エアコンを少し弱めにして、タブッキを開いてみてほしい。湿気が、小説のなかから漏れ出てくるはずだ。

